- TOP
- 歴史と由緒
歴史と由緒
佛成寺のはじまり
- 開山
- 鎌倉時代 正和2年(1313年)3月
- 開山上人
- 会津若松東明寺三世・覚阿弥陀佛観真大和尚
佛成寺のはじまりは鎌倉時代にさかのぼります。会津若松東明寺三世であった覚阿観真大和尚が当地・小松郷を訪れ正和2年(1313年)3月に佛成寺を開かれたと伝わります。
会津若松の当麻山東明寺は、一遍上人のお弟子となった其阿恵鏡上人により鎌倉時代に開かれた時宗当麻(たいま)派の地方本山です。会津の領主葦名氏・上杉氏の庇護の下で発展しましたが、江戸時代末期に戊辰戦争の戦禍により伽藍を焼失しています。
東明寺について『新編会津風土記』には、相模国無量光寺を本寺として時宗当麻派に属し、代々上人を称す。本堂二十七間余あり寮舎も巨宏にして一遍上人の御影堂をはじめ塔頭二十六院あり。とかつての栄華を伝えています。
中世に流行し、時宗僧が多く活躍した連歌も東明寺では盛んに行われており、連歌師・猪苗代兼載による発句「花もみぢ夏こそ盛り庭の松」が伝えられています。
上杉景勝の時代には、慶長7年(1602年)2月、直江兼続・大国実頼ら上杉家の武将27人が、出羽亀岡文殊堂で開いた和漢詩歌百首の会にも若松東明寺其阿文峯上人の参加が伝えられ、江戸時代初期まで隆盛を極めていました。
由緒
佛成寺は天明元年(1781年)火災のため縁起書・古文書ことごとく焼失と伝えられ、草創の由緒は明らかではありませんが、元来は会津若松・東明寺の末寺として出羽国置賜郡における時宗会津東明寺派の中心寺院でありました。
『東明寺御歴代過去帳』によれば東明寺三世・覚阿弥陀佛観真大和尚により、鎌倉時代末期の正和2年(1313年)3月「出羽国置賜郡新開建」と開山が伝えられています。
その後、東明寺上人の隠居寺としての往来が伝えられています。
佛成寺開山・観真上人は元徳2年(1330年)1月15日、佛成寺に於いて入寂され、境内に建つ供養碑は観真上人の滅後まもなく建立したる事が伝えられ当寺としては最古の現存物です。また、本堂には寺宝として開山上人坐像が安置されています。
「ぶつじょうじ」という寺号の由来は、一遍上人が大和国当麻寺で詠まれた「発願文」の一節「佛(ほとけ)の願力(がんりき)に乗じて安楽に往生(おうじょう)せん」に由来し、当初は「佛乗寺」を称しました。小松城主の庇護を受けて戦国時代には「佛城寺」と称し、近世以降は「佛成寺」へと寺号の変遷が伝えられています。
中興開基 桑折播磨守景長(こおり はりまのかみ かげなが)
戦国時代には伊達家臣・小松城主「桑折景長」の中興開基により発展しました。
桑折景長(こおりかげなが)は伊勢守、宗茂、期阿弥(其阿弥)、また播磨守貞長とも称し、伊達氏15代晴宗・16代輝宗父子に仕え伊達家臣最上位格の「宿老」として外交内政に活躍しました。
桑折氏の出自は福島県桑折町(伊達氏・桑折西山城)であり、代々「宿老」を務める伊達家分家の家柄で、桑折景長は10代目にあたります。桑折氏は代々時宗に篤く帰依し、桑折町の菩提寺である「桑折寺」は時宗の寺院です。
「天文の乱」において伊達晴宗の側近として活躍し、弘治元年(1555年)伊達晴宗が奥州探題に補任されると桑折景長は奥州守護代に任ぜられ、「毛氈鞍覆」と「白傘袋」の使用を許されるなど伊達家中では最上位格の格式を有しました。伊達家の使者として京に上り、鷹や馬、黄金30両を献上するなど外交に活躍しましたが、天正5年(1577年)9月19日、小松城にて72歳で逝去。佛成寺に桑折景長の戒名と墓が伝えられています。
「凉雲院殿前遣位景永公素白休意大居士」
先祖に旧小松城家臣を由緒にもつ檀家が多い当寺において、「院殿・大居士号」は小松城主・桑折播磨守景長が今日まで唯一となっています。小松城の歴史とともに現代までその功績が称えられ語り継がれています。
小松城址
佛成寺から北へまもなく小松城址があります。元亀元年(1570年)4月、中野宗時・牧野久仲父子による伊達家の重大事件「元亀の変」の舞台となった史跡です。本丸にあたる「舘之内」土塁や櫓台跡など、南北156m、東西138mにおよぶ大規模な遺構を見ることができます。この遺構は大正時代に米坂線工事の際、当時の有力者によって歴史ある城址の保全運動の努力が払われ大規模な破壊を免れています。
小松城は鎌倉時代長井氏の頃にはすでに築かれていたと考えられ、長井街道、越後街道の要衝を抑える重要な拠点として伊達時代には桑折景長、牧野久仲ら宿老級の重臣が置かれていました。大規模な土塁と堀をめぐらした「平城」でしたが、合戦に備えた城という性格ではなく、街道の管理や統治を行う拠点として築かれました。伊達家の家臣でありながら、小松城主には諸役徴収権をはじめ街道を通行する商人からの様々な利権が認められていました。小松城が最も盛んだった伊達晴宗の時代には、各地の重臣たちがそれぞれ独自の権限を得ていました。
晴宗から16代・伊達輝宗に変わると、家老・中野宗時を中心に家中の対立が深刻となり、「元亀の変」小松城の戦いに至る経緯は『性山公(伊達輝宗)治家記録』に詳しく書かれています。「元亀の変」により、中野宗時・牧野久仲(小松城主)父子が追放されることとなり、戦後処理のため小松城には最後の城主として桑折景長が入りましたが、伊達輝宗は権力の集約化を図ったため小松城は廃止されることとなります。
江戸時代から現代へ
戦国乱世の時代が終わり、太平の江戸時代に入ると寺院は地域との密接な関係を保ち存続していきます。
江戸時代の佛成寺は、米沢藩上杉家の下で幕藩体制の支配下に取り込まれ、現在で言えば戸籍係の役目を受け持つようになりました。檀家の大部分はこのときに寺檀関係を結びました。過去帳は江戸時代中期まで遡ることができます。
江戸時代には寺子屋という今でいう教育機関がありましたが、住職が近隣の子弟の教育に力を入れていたようで、読み書きの初歩を学ぶ和本書籍や「論語」等の儒教本、地獄極楽絵図、涅槃図などが今日に伝わり寺院教育が行われていました。
また、時宗と関係が深い「熊野三社大権現鎮護所」として人々の日常の祈りの場となっていました。
門前には参道沿いに三日町の市が開かれました。旧小松城家臣で佛成寺惣代家である江口繁蔵の句が伝わります。「この春は老いも若きも賑わひて初音を祝う小松村かな」
上杉鷹山の治世、天明元年(1781年)火災に遭い天明7年(1787年)本堂再建。再建に至るまでの当時の日記帳が山形大学図書館に中小松村古文書の一冊として収蔵されています。木材から釘1本に至るまで年月をかけ再建に尽力した記録が伝えられています。
近代に至るまで苦難の時代はたびたび訪れていましたが、七百年間、多くの人たちに支えられ、多くの人たちに安心を分けて今日までこの地に在ります。
昭和29年、本堂に小松幼稚園を開園。幼稚園も開園70年の歴史を数えています。